地名の由来
阿波座の由来
地名の由来を調べることは、その土地の歴史と文化に触れることでもあり、とても興味深い。そして大阪には一読しただけでは読み方の分かりにくい難読地名がたくさんある。
大阪市西区に阿波座(「あわざ」と読む)という地名がある。読み方そのものはそれほど難しくないが、地名の由来が面白い。
阿波座の「阿波」とは阿波国(現在の徳島県)のことである。江戸時代、大坂(大阪)が天下の台所と称されていた頃、この地に阿波国から商人が大勢移り住んで和三盆やそうめんなどの阿波の名産品を売っていたために阿波座と呼ばれたとする説が有力である。
その他、この地に阿波屋西村太郎助という豪商の所領があったことに由来するとする説もある。
いずれにせよこの地は四国や中国地方を中心とした交易の基地だった。
現在の阿波座はオフィスビルやビジネスホテルが立ち並ぶビル街である。
箕面の由来
大阪府北西部に箕面市(みのおし)という地名がある。
この地は古くから景勝地として知られ、落差30メートルを超す箕面大滝が名高い。1990年に選定された日本の滝百選にも選ばれている。
この箕面大滝の流れ落ちる様子が箕(竹などで編んだ農具で、農作物の運搬などに使う)の面に似ていることから「箕の面」すなわち箕面(みのお)と呼ばれるようになったとする説が有力である。
あるいは周辺に「尾」のつく地名が多いことから「蓑尾」(みのお)や「水尾」(みのお)が転じて「箕面」になったとする説もある。
いずれにせよ、水や滝と縁の深い地名と言えるだろう。
ところが、1998年に着工し2007年に開通した箕面グリーンロードの工事による地下水脈の変化によって箕面大滝の水が涸れ、ポンプで水を汲んで放流しているという噂が流れている。箕面市は公式にはこの噂を認めてはいないが、地元民の間では知らない人はほぼいないというほど有名な噂である。
枚方の由来
大阪市街地と京都府の中間に位置する大阪市枚方市は、去年他界した私の伯父(父の兄)が住んでいた地である。伯父の出身地は父と同じく兵庫県某市なのだが、枚方に長く住んでいたため私たちは「枚方の伯父さん」と呼んでいた。
その枚方は「ひらかた」と読む。地元民以外で一目で正しく読める人は殆どいないと思う。大阪に数多い難読地名の一つである。
枚方の地名は『日本書紀』に出てくる「白肩(しらかた)の津」に由来するとする説が有力である。それによると、白肩とは白潟の当て字であり、この地近辺は白い波が立ち寄せる川岸だったそうである。その「しらかた」が訛って「ひらかた」に変形したということである。
現在の枚方市はかなりの都会で、人口も多いし繁華街もある。その代わり治安はお世辞にも良いとは言えないらしく、以前見たニュースでも大阪府で一番治安の悪い町だと紹介されていた。
放出の由来
大阪市鶴見区に放出という地名がある。「はなてん」と読むが、地元民以外で正しく読める人は殆どいないだろう。難読地名の多い大阪においても筆頭格の難読地名だと思う。
放出の由来については諸説あり、結論は出ていない。
まず一つは、水を「放ち出ず」から変化したとする説である。古代この地は湖であり、旧淀川への湖水の放出口となっていたことから、水を「放ち出ず」が訛って「はなてん」になったという。
もう一つは、剣を「放ち出ず」から変化したとする説である。飛鳥時代に熱田神宮から草薙剣を盗んだ新羅の僧が、神の怒りを恐れてこの地で剣を放り投げたことから、剣を「放ち出ず」が訛って「はなてん」になったという。
また、平安時代において寝殿または母屋から続けて外へ建て出した建物を指す放出(はなちいで)に由来するとする説もある。この地は荘園などの飛び出した地域だったので放出と呼ばれ、「はなちいで」が訛って「はなてん」となったという。
大阪随一の難読地名は、由来もまた難解である。
八尾の由来
大阪府八尾市の地名の由来は、諸説ある。
まず「矢負い」から転じたとする説。古代日本において「部」というのは天皇家の領民を意味するが、天皇家のために弓を作る「弓削部」(ゆげべ)と矢を作る「矢作部」(やはぎべ)の集落があったが、ここで作った矢を背負ったことから「矢負い」が「矢尾」となり「矢尾」に変化したという。
またこの地に尾羽が8枚もあった「八ツ尾の鶯」がいたから「八尾」と呼ばれるようになったとする説もある。
また道鏡が河内国弓削に由義宮(「西ノ京」と呼ばれる。現在の大阪府八尾市八尾木北にあり、跡地に由義神社が建てられている)という都を造営ときに、八百(「八百」とは「数え切れないほど多数の」という意味)の杭を打ち込んだためこの地を「八百」(やお)と呼び、その後「八尾」に転化したとする説もある。
地名一つにも興味深いエピソードがたくさん隠されているものである。
伝法の由来
大阪府此花区に伝法(でんぽう)という地名がある。現在は新淀川沿いの下町である。
この地名の由来には諸説ある。
まず、欽明天皇の時代に経論(経とは仏の教えを記した書物、論とは経の注釈書をいう)が我が国で初めて漂着したのがこの地だったとする説。
次に、昔この地に伝法寺という寺院が存在したが、この寺が廃寺になった後も地名として残ったとする説。
また、鳥羽上皇が真言宗中興の祖である覚鑁上人に帰依して高野山に大伝法院を創建した際、建材をこの地で集積したことに由来するとする説。
いずれにせよ、仏教に縁の深い地名であることは確かであろう。
戦国時代には中津川(現在の正蓮寺川)河口の港で、伝法口と呼ばれた。その後、正蓮寺川から伝法川が分岐して港町として栄えたが、1953年に高潮対策のため埋め立てられた。
現在でも伝法港という小さな漁港として残っており、多くの漁船が停泊している。
天下茶屋の由来
大阪市西成区に天下茶屋(てんがちゃや)という地名がある。南海電鉄・大阪市営地下鉄の駅名なので、大阪府民なら知っている人も多いだろう。
「てんがちゃや」と読むが、大阪生まれの大阪育ちの母はよく「ガチャガチャ騒がしい町だから『テンガチャヤ』と読むねん」と言っていた。
天下茶屋という縁起の良さそうな地名の由来は、大阪人がこよなく愛する豊臣秀吉にまつわるエピソードによるものだ。
桃山時代、高名な茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)の屋敷跡に芽木小兵衛という人物が茶店を開いたが、豊臣秀吉が住吉神社に参拝した途中でこの茶店に立ち寄って休憩したところから、「太閤殿下の茶屋」から「殿下茶屋」となり、更に「天下茶屋」と変化したのだという。
歴史上の人物にまつわる地名は数多いが、天下茶屋とは何とも勇ましく目出度い地名だなと思った。
鶴橋の由来
大阪市生野区に鶴橋という地名がある。「つるはし」と読む。
鶴橋の由来はたいそう優雅である。
昔、この地は京の都から河内国や大和国へ至る交通の要所だった。この近辺に平野川にかかる大きな橋があったが、この橋に数多くの鶴が群れて飛んでいたために、この橋を「鶴の橋」と呼んだ。
そして明治22年に橋にちなんで地名も正式に「鶴橋」となった。
しかしその後、平野川も鶴の橋も姿を消し、地名だけが残った。
現在の鶴橋は焼肉店やお好み焼き店などが立ち並ぶ下町で、コリアタウンもあるので韓国系住民も多い。大阪ミナミと奈良県・三重県・名古屋を結ぶ近鉄電車によって大阪東部の玄関口として栄えている。
そのため、一種独特のディープな雰囲気を持つ興味深い街になっている。焼肉や唐辛子のにおいが立ち上る町並みには、かつての鶴の橋の優雅な光景は微塵も感じられない。
千日前の由来
大阪市中央区に千日前(せんにちまえ)という地名がある。難波・道頓堀なとと並んで、大阪ミナミを代表する繁華街の一つである。
由来って面白いものです。地名じゃなくてもO脚なんかは見たまんまですよね。
千日前の地名の由来は、千日寺の門前という意味と言われる。千日寺とは、法善寺と竹林寺の2つの寺を指す。両寺はそれぞれ千日回向を行っていたことから千日寺と呼ばれ、その門前町も千日前と呼ばれるようになったということである。
この地には、江戸時代は刑場と墓地があり千日墓地と呼ばれていたが、明治時代に入り刑場と墓地が廃止された後は繁華街として発展した。
法善寺境内にある西向不動明王(水掛け不動)の北側の路地が飲食店街として有名な法善寺横丁であり、織田作之助の『夫婦善哉』の舞台としても知られる。
また道具屋筋と呼ばれる商店街があることでも知られ、好奇心旺盛な観光客からマニアックな好事家まで多種多様な来訪者がここを訪れている。
御幣島の由来
大阪府西淀川区に御幣島(みてじま)という地名がある。左門殿川と神崎川の分岐点の、神崎川左岸に位置する。
御幣島の地名は日本神話に由来する。古代この地は難波八十島の一つで、神功皇后が三韓征伐から凱旋する途中に、この地で御幣(「みてぐら」と読む)を貢ぎ、田裳見宿禰に命じて住吉大神を祀らせたと伝えられる。
御幣(みてぐら)とは、御手座とも書き、神の座に手向ける物の総称である。
奈良時代から見える地名で、天平3年(731年)の『住吉大社司解』という史料には「御幣浜」(みてはま)という地名で登場する。
また、平安時代の歴史物語である『栄花物語』にもこの地に関する記述があり、それによると延久5年(1073年)2月、後三条上皇の天王寺御幸の帰途において、淀川を遡行中に御幣島で歌遊びをしたとある。
現在はJR東西線の駅名である。
遠里小野の由来
大阪市住吉区および堺市堺区に遠里小野(おりおの)という地名がある。元々は摂津国住吉郡遠里小野村という一つの村だったが、大和川を境に二つの市に分けられてしまった。
遠里小野の地名は万葉集に遡る。『万葉集』巻7に「住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく」という歌があるが、このときは「とおさとおの」と読んでいた。遠里小野は「遠くに里が見える広い野」という意味だという。
「とおさとおの」がいつ「おりおの」と読むようになったのかは不明だが、『太平記』の「住吉合戦」によればこの地は瓜生野(うりうの)とあり、それが転じて「おりおの」と読むようになったという。
昔から遠里小野はハシバミ(榛)の自生地で、その油を採取した灯油の生産が盛んだった。遠里小野のハシバミ油は住吉大社の神事にも用いられたという。その後、ハシバミ油から菜種油に転換した後も山崎(京都市乙訓郡大山崎町あたり)に並ぶ油の一大産地だった。
現在の遠里小野は工業の盛んな下町である。
阿保の由来
大阪府松原市に阿保(あお)という地名がある。大阪に数多い難読地名の一つである。
阿保の由来は平安時代に遡り、平城天皇の皇子阿保親王(あぼしんのう)に由ると言われている。
阿保親王は平城天皇の第1皇子で、母は側妾の葛井藤子。在原行平・業平らの父でもある。阿保親王は父平城上皇の起した薬子の乱に連座して大宰府に左遷されるなど、不遇な生涯を送った人だった。
しかし、松原市には阿保親王のおかげで土地が豊かになったといった伝説が多く残されており、彼が土地の民衆から慕われていたことが伺われる。
同地には菅原道真を祭神とする阿保神社が建っているが、大宰府に流されてる途中の菅原道真がこの地に休息したことに由来するという。
中央政界では不遇だった阿保親王と在原業平と菅原道真。土地の伝承は意外な人物を結びつけることが多いので面白い。
立売堀の由来
大阪府西区に立売堀という地名があり「いたちぼり」と読む。現在は金属・機械系中小工場が数多く並ぶ工業地域だが、江戸時代は材木の集積所として栄えていたらしい。
立売堀の地名の由来は大阪の陣(1614?1615年)に遡る。
大阪の陣のとき伊達政宗の率いる伊達軍がこの地に堀を築いて陣地を構え、大阪の陣が終わると地元民がその陣地跡を掘って川にしたことから最初は「伊達堀」(だてぼり)と呼んでいたが、その後「いたちぼり」と呼ばれるようになった。
さらにその後、この地での材木の立ち売りが許可されると「立売堀」という字が当てられるようになった。
由来を知ってしまうとなるほどと思える難読地名だが、地元民以外でこの地名を一目でわかる人は少ないであろう。
地名の由来を知ると言うことは、その土地の歴史の一部を知ることでもあり、とても面白くて奥深いと思う。
気分を変えて話をしましょう。最近結婚についての考え方が昔とはだいぶ変わってきてるような気がします。特に婚活という言葉を使って結婚活動を積極的に行うこともメディアなどで取り上げられていますねアラフォー婚活なんて言い方はかっこいいですが、お見合いと何が違うかは私はあまり把握できてません。
門真の由来
大阪府中央部に門真市(かどまし)というところがある。寝屋川市や守口市に隣接する大阪近郊ベッドタウンの一つである。市街地にある門真市駅には、京阪電鉄と大阪モノレールが通っている。
「門真」の名は戦国時代から古文書に見える。この地は昔は荘園で、室町時代初期までは普賢寺荘と呼ばれていたが、戦国時代からは門真荘と呼ばれるようになった。
名前の由来は諸説あり、潟(かた)間(ま)が転じたとする説、潟沼(かたぬま)あるいは角間(かどま)から転じたとする説がある。あるいは門間、すなわち低湿地など生産性の低い荘園が、領主から免田(国から租税を免除された田)として認められたことに由来する説もある。
いずれにせよ、この地は低湿地だったことは事実のようで、江戸時代以後は蓮根の生産が盛んだったらしい。
明治14年までは門真村と呼ばれていたが、その後は門真町と改称され、昭和38年に門真市へと移行した。